伝えること

いまからおよそ2500年前にゴータマ・ブッダ(釈尊)は悟りを開きました。釈尊は人々にその悟りの内容を伝えるべきかどうかで悩みます。どうやって伝えたらよいのか、人々は(釈尊が悟った)この真理を理解できるのだろうかなどと考え抜いた末に、釈尊は一度は説法不可能という結論に達しました。ここで、釈尊がその後も沈黙を守り通したと仮定してみましょう。どこかの物好きが記録を残してくれたとしても、この場合わたしたちに伝えられるのは、せいぜい “昔ゴータマ・ブッダという人がこの世界の真実を悟ったのだが、ブッダは沈黙を貫いたのでその内容は誰にも分からない” という程度の、あってもなくてもいいような噂話の類いに過ぎません。仏教など影も形もないでしょう。しかし、梵天の再三の勧請を受けた釈尊は、伝えることの困難を知りつつも説法に踏み出しました。サルナート(鹿野苑)での最初の説法(初転法輪)です。そこで発せられた釈尊の言葉は大気を微かに震わせ、その微かな震えが2500年の時を超え、いくつもの国境を越えて現在のわたしたちに仏法として届けられています。

ちょっと大袈裟な書き出しです。別に仏教史を連載しようなどという野心も能力も僕にはありません。このサイトを立ち上げるにあたり、これを引き合いに出すのはどうなんだろうかという疑念を抱きつつ、釈尊の初転法輪に触れてみました。要するに、何かを発信しなければ何も起こらないということが、僕は言いたいのです。釈尊が、“やっぱりだめもとでも話をしてみようか”と思わなければ、法の車輪は回転を始めない(法それ自体はつねに、そしてずっとあるのですが)わけで、同様にここから何かを発信すれば、どこかで小さな車輪が少しは回り始めるかもしれないという願いと期待があるのです。釈尊と違い僕には、常に正しいことを語る能力などありません。したがって、車輪は見当違いの場所で見当違いな回転を始めてしまうこともあるでしょう。しかし、正しさを畏怖するあまりに口をつぐんでいるだけでは誰にも何も届きません。現代に生きる僕たちにはインターネットという優れた道具があります。それを使わない手はありません。ここはひとつ蛮勇をふるって最初の言葉を発するべきだと思っています。それが間違っていたなら正しい道に引き戻してくれるひとがいることを信じて。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です